瑠駆真と目合わせたくはない。観たくはないが、自然とテレビへ視線が向かう。もうそこに、瑠駆真の顔も視線もない。情報番組だろうか。明るい声音が逆にシラける。
瑠駆真は、まだ自分へ視線を向けているだろうか? それともテレビにでも見入っているのだろうか?
そもそも、なぜ瑠駆真はこの部屋で寛いでいるんだ?
駅裏の路地。美鶴を抱きかかえながら携帯を取り出した瑠駆真は、タクシーを呼んだ。
タクシーで下校だなんて………
バカだと毛嫌う唐渓の同級生にでも成り下がってしまったかのような、屈辱にも似た感情を湧き上がらせながら、それでも結局はマンションまで送ってもらった。
空の端はすでに明るくなってきていたが、まだ雨は降っていたし、電車で帰れば唐渓生に出くわす危険もある。
マンションの入り口で短く礼を言い、そこで一人でタクシーを降りるつもりだった。瑠駆真も無理に付いて来るような素振りは見せなかった。だが、早く部屋へ逃げ込みたいと思って勢い良くタクシーから飛び出し、再び目の前が暗くなった。
結局、瑠駆真に支えられる形となってしまった。
タクシーを飛び出し、マンションの入り口に出た瞬間、目の前に浮かんだのは母の顔。
ひょっとしたら、母は戻ってきているかもしれない。
勢い良くマンションへ向かおうとする力と、それを押し留めようとする力。二つの力が美鶴の身体を大きく揺らした。貧血気味という体調も影響していたのかもしれない。
「待って、僕も行く」
瑠駆真はカードで支払を済ませ、美鶴を支えて部屋へ向かった。
「クレジットカードでタクシーですか。たいした御身分ですね」
自分の言葉に逆ギレして、帰ってくれればいいのに。
そう思うものの、いつもなら辛辣な美鶴の言葉が、今日は虚しくエレベーターに響くだけ。それに、そんな下手な拙策など、瑠駆真には通用しない。
離せ帰れと暴れる気力もなく、結局美鶴は瑠駆真を伴って部屋へ入った。
誰もいなかった。
まずそれにホッとした。母の不在を確認すると、少し体が楽になった。
瑠駆真の言うように、熱があるというワケではなさそうだ。あれくらいの雨で風邪をひいたというワケではないだろうし、ベットで横にでもなれば落ち着くだろう。
……………
この部屋で?
母の詩織は、こちらに戻っても帰っては来ずに、そのまま出勤したのだろうか? それとも、今日はあのまま綾子のところに入り浸っているのだろうか?
だがいずれ、きっと詩織もここに帰ってくる。
そう考えると、とても眠ろうという気分にはなれない。結局、瑠駆真が勧めるままにとりあえずはシャワーを浴びた。
目の前でチカチカと賑やかなテレビの画面が、夜の繁華街を彷彿させる。
お母さん、帰ってくるんだろうな。帰ってこない理由なんてないもんな。
顔なんて、見たくないな。
しかし、美鶴には他に行くアテもない。
「はぁ…」
「どうしたの?」
瑠駆真の声があまりに落ち着いていて不自然さなど欠片も感じさせないものだったので、美鶴は思わず振り返りそうになった。もう少しで顔が見えてしまうというところで、なんとか思いとどまる。
「なんでもない」
無理矢理テレビと向かい合う。
熱帯魚専門店からの中継。都会の一人暮らしに人気という熱帯魚を特集しているらしい。犬や猫の同伴を許可している集合住宅が増えているなかで、やはりまだペット禁止の場所も多い。水槽の中の世界が、疲れた心を癒してくれるという。
魚を水槽に閉じ込めてストレスを与えながら、自分はそれを見て楽しむというのか。魚を飼う人にはそんな気など微塵もないのだろうが、やはり人間とは、どこかで何かより優位に立ちたいという潜在意識を持ち合わせているのかもしれない。
相手を自分より格下に見ることで癒される。
唐渓の人間と一緒だな。
最新の設備を整えた四角い箱のなかで、目を大きく見開いたままの熱帯魚がゆっくりと、あるいは素早く、あるいは滑稽に泳ぎ回っている。
水草に身を隠してはまた姿を現す魚。そのたびに緑色がユラユラと揺れる。
瑠駆真とは絶対に視線を合わすまい。このまま私がテレビに見入って瑠駆真を無視すれば、そのうち呆れて帰ってしまうかもしれない。
テレビに集中しようと強引に見つめる。
揺れる水草。まるで今の美鶴を笑うかのように、優雅に軽やかに舞うように揺れる。
だが美鶴は知っている。どんなに設備を整えても、水槽に貯められた水は澱んでいく。川のように流れている水ですら、現代人の中には生臭さを感じる人もいる。水槽の水ならなおさらだ。
……… なぜ自分はそれを知っている?
途端に、息苦しさが美鶴を襲う。鼻の奥へツンッと刺すような刺激が走り、顔面にヌメるような生臭さが漂う。
澤村優輝に頭を突っ込まれた、緑に濁った水槽の水。息苦しさで吸い込んだ水が食道を通り、胃に流れ込む。鼻からも吸い込んだ。気管に入り込み、窒息するかと思った。
テレビの向こうで、魚の泳ぐ水槽の水。あれと同じものを自分は身体の中に入れた。口から、鼻から、触れた肌からも体内に取り込んだのではないだろうか。本気でそう思える。
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